日本では、様々な団体が「支援活動」を行っている。
その支援は、日本にいる一人一人が、心を込めて、想いを込めてやっているが、
実はその支援にも、良し悪しがある。
その1例を挙げてみよう。
私が初めて教育支援に参加したのは、2009年の12月。
バングラデシュにあるY&M International School という所だった。
日本人の女性・Tさんが、「たった一人で、知り合いもいないバングラデシュで不思議な出会いがあり、そこで念願だった学校を建てた」というものだが。。。(本当は知り合いがいて、その人のツテで行ったということを後に知る。今現在学校が立っている場所も、もともと学校があり、経営できなくなって持て余していたところを譲り受けた、ということだ)
当時、私は彼女のその行動に感動し、活動に賛同し、支援活動に参加した。
フォスターペアレントという制度もあり、一人の生徒を金銭面で支援する、という活動にも賛同し、
ある女の子のサポートをさせてもらっていた。
しかし実は、生徒の為に私が支払っていたお金、私と同じように賛同し、彼女の活動に賛同し、支援していた人々のお金が、今現在もバングラデシュ人校長(副校長?)として名を連ねている、Rという人の、生活費に充てられていたことが判明した。
その事実をつかんだのが、当時同校で教員をしていた、私の現在の夫である。
夫は私に相談してきた。
「どうすればいい。自分はどう行動すればいい。これは学校にとって、生徒たちにとって大きな問題である。」
私はすかさず、「T校長に相談しなさい。すぐに問題を解決しなければいけない。」と答えた。
2010年の夏に、Tさんが、数名を連れて同校に訪問したとき、夫は意を決して彼女に話した。
「これは、学校にとって大きな問題である。この国は権力の国だから、もし、この事実を自分が握っているということをRが知ったら、自分は教育現場から追放されてしまう。自分の名は伏せた上で、Rに事実確認をしてほしい。」
と、そう言った。
Tさんは「約束する。」と言った。
しかし彼女のとった行動。それは、
「○○さん(夫)から、あなた(R)が学校に寄せられた支援金を横領している、ということを聞いたが本当か。」
と、R本人に夫の実名を出して問いただした、ということ。
教育者であったTさんの、その行動を私は疑った。
それは、仮にAさんという子が、
「先生。○○さんが私をいじめる。もう私は怖くて学校に来れません。」
と訴えたとして、その教師が○○さんに
「Aさんがあなたにいじめられていて、学校にはもう来れない、というけれど、あなたいじめているの?」
と聞くのと同じである。
この後どうなるかというと、お分かりのように、
○○はAさんに「お前、あのこと先生に言っただろ。ふざけるな。」
という風に、いじめはますますヒートアップしていってしまう。
一応書いておくが、正しい対応は、教員自身が○○の行動を隠れて見張り、
Aさんに対するほんのちょっとした問題行動にも目を光らせ、その現場を自分で取り押さえる、ということ。
Aさんを守るために必要な行動である。
間違っても「Aさんが、こう言っている。」とは言ってはいけないのだ。
しかし、教員経験のあるTさんは、それをしなかった。
もちろんRは夫を即刻クビにし、「余計なことを言うな!お前はいらない!」と罵倒した。
私はTさんのとった行動に怒りを抱き、その思いをぶつけた。
彼女の私に言い放った一言。
「あなたのレベルで物事を考えてほしくない。」
ショックだった。
私は、この学校の支援の為に、いつも相談にのり、アイデアも出してきた。
初めの頃はなかなか賛同を得られなかったが、私も一緒に奔走して、活動支援の輪も広げていった。バッグのことも、HPの写真のことも、私は色々とアイデアを出し、私なりに彼女の活動を支援してきたのに、その一言で全てが消えた。
あぁ、こういう人だったんだ。
人の善意や想いを、粉々にできる人なんだ。
そう、思った。
それからは一切支援に参加していない。
フォスターペアレント代も、内訳は「生徒一人の授業料・教科書代・給食代・教員の給料」とあるが、
教員への給料は数か月支払われないことはザラで、そのことに関して教員がRに訴えると「お前の給料を支払えるほどのものはない。食べさせてもらっているだけ感謝しろ。」というそうだ。
教育を与える立場の教員を守れない学校は、子供たちに教育を与える資格はない。
生徒への給食も、Tさんたちの団体が来る時だけ、与えているそうだ。
今も夫の元へは、現教員からSOSの連絡が入る。
支援する人間は、そういったことを覚悟して支援するべきである。
某世界的団体や、NPO、NGOに寄せられる支援金の約7割は、各団体の活動資金に使われているということをも知っているべきである。それを分かった上で、支援するかしないかを見極めるべきである。
現在、「支援(寄付)依存」という言葉がよく聞かれる。
「お金持ちの国が、自分達の為にお金を払って生活させてくれるんだから、自分たちは働かなくても大丈夫だ。」と思っている貧国の人々が増えている。
本当の支援とは、その国の人々が、自身で国を建て直していくことを支援する、という意味なのに、
支援する側も支援される側も、何か勘違いしているように私は思う。
支援をして自己満足に浸っているのは、おかしいことだ。
支援とは、身も心も削り、ヘトヘトになってまでも相手のことを思い、
自分の全てをささげることなのだ。
本当の支援ができている人は、この世界に一体どれだけいるのだろうか。
きれいごとではなく、泥だらけの支援を私は目指したいと思う。
ちょっと思うところがあって、こんなことを書いてみた。
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