9月19日より仙台・山形へ行ってきました。
空模様が怪しいなか、東北自動車道を通って東北入りをしました。
途中、福島のSAで休憩をしつつ、屋外に設置されている大地図を眺めながら
そこから少し東へ行けば南相馬市であることを知り、なんだか胸が痛んできました。
福島県に入ったあたりから、道路の損傷が激しい場所や壊れている家々が目立ち始め、
あの大地震が、多くの人にどれだけ大きな傷を与えたかを改めて痛感させられました。
その日の夕方に仙台入り。
新幹線の線路下にある仮設住宅を実際に見て、言葉にならないほどの衝撃を受けました。
あんなに小さな住まいに、今も苦しんでいる方々がいらっしゃると思うと
何もできない自分がとても憎かった。
一体自分は何をしているのか。。。。
そんな思いを残したまま、宿泊予定の仙台駅前のホテルへ。
夕飯まで時間があったので、少し街中を歩きました。
大きな街で、数年前に訪れた時とは全く違う顔を持ち、東京に並ぶ大都会でした。
しかし地震の傷跡はそこらじゅうに見受けられました。
夕飯の際、サーブしてくださったお姉さんが、地震の時のことをたくさん話してくださいました。
彼女はまだ20代前半。出身は仙台から少し離れた小さな町だそうです。
地震当日もホテルで働いており、ちょうどお昼のお客さんのおもてなしをすべて終え、
さあ、これから休憩だ!という時に大きな揺れに見舞われたそうです。
割れた食器やめちゃめちゃになったテーブルセッティングを片付けていると、
駅から信じられないほどたくさんの人がホテルに押し寄せ、身動きがとれない状態になったそうです。
ラジオから聞こえる地震の情報に、その時はまだ、大きな事態になるとは思わなかった、と。
しばらくは現在の住まいや実家にも帰れなかったそうですが、
その後実家に戻ったところ、実家は損傷が激しく、立ち入り禁止になっており、
外からは津波の跡が克明に残っていたといいます。
避難所で家族に再開し安心したのもつかの間、今度は人々との軋轢の中での肩身のせまい思いをされ、カップラーメンひとつ食べても、人の目が気になる状況があったそうです。
「人の目が本当に怖かったです。」
そうつぶやかれました。
「今回はなぜこちらにいらしたのですか?」
と聞かれたので、
「こちらの中学校2校で演奏させていただくので、仙台に来ました。」
と答えました。
彼女は、
「こちらの学生は、地震のせいでたくさんの行事がつぶれてしまい、楽しむことができないでいます。
ぜひ楽しい時間を子ども達に与えてあげてください。きっと喜びますよ。頑張ってください!」
と、励ましてくださいました。
終始穏やかな笑顔で話し、サーブしてくださった彼女。
大きな地震にみまわれて、想像できないほどの辛く苦しい思いをされたはずなのに、
地震の時のことを淡々と話してくださり、そして逆にこちらが励まされました。
テレビや新聞ではなく、こうして生の声を聞かせていただいたことは貴重な経験でした。
地盤沈下が激しいと言う仙台駅周辺の地区は、今も工事が続けられています。
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